私は、慎重な性格です。
なぜ慎重になるのかを考えてみると、一度決めてしまうと後戻りできない、つまり、結果が不可逆的なものになってしまう恐れのようなものが背景にあると考えられます。
このように考えて、私は不可逆というものに関心を持ちました。
今回この不可逆という概念に着目して、「書く」ことの意味の変容や、あるべき姿について考えてみたいと思います。
不可逆について
不可逆というのは、一度してしまうと元に戻ることができない、取り消せないことです。
ものを捨てること、大きな決断をすること、生き物の生と死(少しシリアスですが)、時間の経過、といったものが挙げられます。
また、液体をこぼしてしまったり、ガラスなどを割ったりしてしまうと、元に戻せません。
このような、不可逆的なものごとに直面したとき、私たちには、思索の時間がもたらされると考えられます。
・少し思い入れのあるものは、捨てるかどうかとても悩みます。
・極端な例でいえば、1年海外で生活するかどうかといったら、様々な点を検討する必要があるでしょう。
・生き物の生と死に関しては、様々な哲学が生まれています。
・液体が入っているものや、壊れやすいものを持ち運ぶときには、落としてしまわないように、頭の中では、周囲を確認したり、手元を見たり、といったように、様々な考えを巡らせているはずです。
このように、不可逆的なことには、ものごとを慎重に考えさせる作用があると考えられます。
不可逆と、「書く」こと
では、不可逆と可逆という概念を使って、「書く」ことについて考えてみます。
これまでの歴史のなかで、何かを「書く」という場合には、一般的に、紙に筆で書いてきました。
一度書いてしまうと、取り消すことができないため、書く場合には、事前に内容をよく考えて、慎重に書く、という習慣が根付いていたと考えられます。
「書く」ことは、不可逆的なものであった、といえるでしょう。
しかし、パソコンや携帯電話が普及してから、手軽に文章を「書く」ことができるようになりました。
書くことも、消して書き直すことも、自由自在にできます。
これは、可逆的なものであるといえるでしょう。
つまり、「書く」ことは、従来は不可逆的なものでしかなかったのに、可逆的なものとしても扱えるようになった、と考えられます。
加えて、世の中に文章や情報を発信するということが、従来は出版社などの限られた機関からでしかできなかったのが、今はネットを使って誰でもできるようになっています。
かつては、慎重に物事を書き表して、限られた機関を通じて文章などを発表していたのに対して、今では気軽に文章を書いて、誰でも自由に文章などを発表することができるようになっている、といえるでしょう。
今現在、SNSの利用の仕方について様々な問題が指摘されています。
今必要なのは、可逆的なものとして扱えるようになった「書く」ことを、不可逆的なものとして扱うという姿勢ではないでしょうか。
不可逆的なものとして扱っていたころのように、
事前によく考えて、本当に発信してよい内容かどうか、誤字脱字がないか、感情にまかせて書いていないか、などをよく確かめる
といったことを今一度心がける必要があるといえるのではないでしょうか。
最後までお読みいただいてありがとうございました。